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最適な家ではなくあえて不便な家という選択

2016年4月2日[ケヤキの見える窓辺]

家づくりのお手伝いをさせていただく中で私たちは表題にあるように今の環境のなかで自分たちに最適な家を目指して思考を集中しがちです。生きられることを既定のものとして考え、自分さえよければいいという自覚はないにしても自己利益の最大化に走りがちになる。

地球温暖化の速度を少しでも緩やかにするためにエネルギー消費を抑えるということからエネルギー効率のよい設備を選ぶのは当たり前になっていますがエネルギーを使う機器の使用をやめるという発想はなかなかできない。効率のよい設備を選んでいるということだけで満足しがちである。

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今日のNHKの朝の連続テレビドラマ「あさがきた」で主人公のあさが別荘で行う勉強会で自らの幼年時代を振り返ってどれだけ便利な時代になったかを語るシーンがありました。私たちも50~60年ほど遡った時代を考えてみるとアルミサッシも断熱材もエアコンもなく高性能な家電もありませんでした。現在に比べるとなんと不便な生活であったことか。はるかに便利になった生活を送っているわれわれがあの時代に比べて幸福になったかというと誰も手を挙げる人はいないでしょう。

 

わたしたちはこれまで凄まじく前進し続け、その繁栄と進化は頂点に達した感があるが、それでもなお歩みを止められない。文明というものはそういうものかもしれないが私たちは生死を重ねて命を繋いでいく循環の輪の中にいる。わたしたちは凄まじい文明の歩みの中で社会のあちことで歪みが生じ、人の心は荒廃した。

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わたしたちは生来のやさしさや愛、勇気など人間の本質的な何かを再び取り戻す転換点にきているのではないか。その何かを自ら取り戻す場がホームではないだろうか。便利一辺倒の家や、文明の観点からして自らに最適な家では、周りと協調することもなく自己利益の最大化に走りがちになり、人間の本質的な何かが見えなくしているのではないだろうか。そう考えると、わたしたち人間の、家族の、また生きることへの本質的な何かを取り戻す場としては適度な不便さがあった方が、常に原点に還って人間の本質的な何かを考え直しやすいのではないだろうか。

そうすることがわたしたちの真の豊かさにつながるのではないだろうか。

 

 

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