仕仕切りについて考える
2014年12月17日[ケヤキの見える窓辺]
よく知られた話ですが、堅固な石造りの建築物が一般的な欧米では、人々は石の壁で外界を仕切る。内と外とを厳格に分けることで、心の平穏を守ろうとした。一方我が国の伝統的な建築では、内と外が厳密に分けられていない。
それも簡単に破壊できる障子やふすまで仕切られていた。しかも障子やふすまは簡単に破壊される上、ヒトの影や物音を伝え仕切りの向こう側の存在のかすかな気配を気付かせる役割をもつ。
しかしわれわれの先祖はこの「仕切りの向こう側の存在のかすかな気配」をもってわが身を守ろうとした。それは背後に個人ではなく共同体で守る意識だと言える。仲間への信頼である、共同体の暗黙のルールが尊ばれてきた。
以前私は「防犯、プライバシー対策は?」というタイトルでブログを書いたが、その主旨は家の防犯対策は侵入しにくいかどうかだけでなくコミュニティとの良好な関係を保つことも大切であり、またコミュニティとの良好な関係を保つためには保証されるべき最低限のプライバシーの確保が不可欠だと述べた。
現在の家づくりを見ると、伝統的に紙と木でできていた家に、いきなり欧米的な外と内を厳格に分ける荒っぽい手法が導入されてきているのをみる。その理由は断熱性能、省エネ、便利、簡単とういう文明の文脈で正当化されてはいるが、あまりに個人が主張されその中にある共同体—仲間への信頼、意識が軽視されているのではないだろうか。それが原因の社会問題も多く発生しているように思われる。
ボタン一つで自由に開閉できるシャッター、外部の音を完全に遮断してしまうほどの高気密製窓などがハウスメーカーを中心に標準装備されている家が目立つ。商店街がさびれてシャッター街やシャッター通りなどと呼ばれるが、これだけ住宅にもシャッターが標準装備されると将来住宅街にもそう呼ばれる地域が出現するのは時間の問題であろう。
住宅のとくに開口部廻りは住人の個性、存在が表現される。カーテンやブラインドの趣味、窓辺に飾られている置物、夜になるとともされる明かりにも住人の好みが表現され、カーテン越しに見える人影など・・・。また部屋内からは窓から入ってくる街の騒音、窓外の樹木の影や風に揺れるざわめき音など。
以前表参道近くに勤め先があった頃、仕事帰りに若手音楽家のミニコンサートに寄ったことがある。コンサートが終わり演奏者が窓外に目を向けながらここはワルシャワに似ているとしんみり語った。その日は風があり、表参道のケヤキ並木がザワザワしていた。きっと留学されていたワルシャワのことを思い出されたのだろう。
※写真は東京目黒の庭園美術館