高気密・高断熱しかない現代住宅の貧しさ
2014年10月11日[ケヤキの見える窓辺]
わが国では「暖房」という言葉はあるが実際その意味を実感している人の数はわずかではないだろうか。
暖房の「房」とは小さな建物、部屋などを表すので暖房とは部屋全体を均一に暖めるという意味になる。そうするためには家や建物の気密を高めなければ実現できない。
わが国はヨーロッパの先進国に比べて緯度的にはかなり南に位置している。大阪は地中海より南のアフリカ大陸にあるモロッコのカサブランカと同緯度にある。また雨量はロンドン、パリ、モスクワは年間600~700ミリに比べ大阪は1300mm余りで日本海側の豪雪地帯では3000ミリを超えるところが何箇所かあり、三重県の尾鷲では4000ミリを越えている。世界でも4000ミリ以上の土地は数えるほどしかない。日本は地中海より南の日差しが照りつけるところへ、アマゾンやパプア乳ギニア並みの雨が降り注ぐ特異な風土にある。冬は身に羽織る衣類をふやしたり、囲炉裏や火鉢で直火を炊いて暖を採ったりで何とかしのげたが、夏の場合はこのような手段はなかった。できたのは自然の力を利用していかに涼しく過ごすかの工夫しかなかった。夏の高温多湿の気候に適合するべく強い日差しをさけるため軒を深くし、風通しのよい開放的な家にせざるを得なかった。
現在でも高気密で高断熱な建物でないとこの「暖房」は不可能で、普通の家に住んでいる大多数は暖房とは名ばかりの「採暖」方式で生活している。「採暖」は暖房と異なり、寒さと同居しながら寒さをしのぐため局所的に身の回りにのみ暖を採る方式である。
わが国でも高気密・高断熱が叫ばれ始めたのはカナダがR-2000住宅を世界にさきがけて発表したあたりからで、最近やっと一般住宅にもこの仕様の住宅が建てられ、普及し始めた。
一方ヨーロッパでは寒さが厳しく日照も少ない冬に適合すべく高気密の閉じた家に住まなければならなかったので暖房という方式は自然に浸透していった。ヨーロッパでは暖房を卒業して省エネ住宅に突き進んでいる。暖房のエネルギーとして二酸化炭素を排出しない地球にやさしい材料に依存しようと躍起になっている。電気や石油に頼らない太陽と水と大地だけで生産する再生可能な資源である植物を生育させ、収穫し、自然乾燥させ、冬にはそれを燃焼させて暖房のエネルギーとする家もでてきている。
さて、わが国も単純にこのまま高気密、高断熱に進んでよいものかと考えます。それは「文化」とも関連している問題で「採暖」の良いところは簡単に切り捨てることはできないからです。「採暖」の良いところは直火を媒介にしてそれを囲んで人同士のコミュニケーションがとりやすいところ、また直火を眺めることのよさにあります。
私もかんてき(七輪)を囲んで家族でもちを焼いたり、たわいない話をしたりで幼少期を過ごした体験があります。火を囲むことにより自然に会話が弾むのです。また火を眺めながらあれこれ考えることは(うまく言葉で言い表せませんが)頭脳の成長—人間の成長に大切なことだと私は思います。
現在の日本の住宅は「採暖」の良さを無視して、一気に高気密・高断熱化にひたすら突き進んでいく危険性をはらんでいます。確かにそれは「省エネ」住宅の近道かも知れませんが切り捨てする大切なものも多いようです。たとえば高気密化によってわれわれが古来から受け継いできた優れた音の感覚のDNA—-自然音に対する感性が失われてきているのは以前の私のブログで述べた。
また通気—風に対する豊かな感性も失われてきているのではないだろうか。海に面している町では海風や陸風や夕なぎ、朝なぎなど肌で感じることができるが高気密のおかげでその機会を失ってしまっている。
われわれは高気密・高断熱一辺倒ではなく「採暖」の良さを理解し、また高気密のマイナス面も理解し、これを生かしたわれわれの「省エネ」住宅に進む道を歩むべきだと思います。
※写真は箱根の一コマ