二つの時間と現代住宅
2020年8月8日[ケヤキの見える窓辺]
時間には二つの相がある。
その一つは過去から現在へ流れて、これから未来は流れてゆく歴史的文明の時間であり、過去から未来へ向けて一直線に進み決して後戻りすることはない。もう一つは月の満ち欠けや地球の太陽に対する公転による365日余りの一年はいままで繰り返され、未来も続いていく永劫に回帰する自然時間であり、繰り返し循環する相である。
前者が文明と呼ばれ、後者は文化と呼ばれる。
生物としての人間、個体としての人間は、生老病死を繰り返す、月が満ち欠けするが如くに、人も生まれ育ち、成熟して衰え、死んでいくように、本来的には回帰する自然時間に属している。
個人としてのみならず家族として見ても、家族は古代も現代もただその世代として生老病死を繰り返す、回帰する時間の相にある。ぼく達は、個人として生まれ、成長し、やがて死ぬが、その生は先祖から引き継がれ、子孫へと引き継がれる相において、一歩も進歩せず、ただ循環するだけである。千年前の人間は携帯電話を持たなかったが、現在のぼく達と全く同様に、生まれ、成長し、死んでいった。千年後の人間はぼく達の思いもよらない喜びの利器をもっているだろうが、生まれ、成長し、死ぬという循環の相から一歩も進歩することはないだろう。
二十世紀は「進歩すること」が至上の課題である世紀であった。科学と科学技術とそれを支える経済力をエンジンとする文明は、直線的に進歩する以外の行先を知らない。そのため「進歩」という概念が不動の価値を獲得してきた。その一方で回帰する不変の時間は二次的な立場に追いやられた。
文明は与えられものではなく、ぼく達一人一人の願いや欲望の総体として作り出してゆくものであるから、その直進する時間性から、ぼく達は逃れることはできない。好むと好まざるにかかわりなくぼく達はその時間性に属しつつ、皆で、価値や意味はあたかも進歩することにしかないような現代文明という神話を作り上げてしまった。それはむろん、悪ではない。ぼく達の願いや願望、希望として作り出し、これからも作り出していく文明の総体を全面的に否定することなどは、誰一人としてできるはずがない。
このような観点から現代住宅を眺めてみると取り込みやすく、わかりやすく宣伝しやすい文明的な側面のみが強調され、いわゆる文化的な側面を重視した住宅は少ない。前者の住宅はハウスメーカーや量産型住宅を得意とする工務店などが主にその役割を担い、後者のどちらかといえば非生産的な住宅は設計事務所がその役割を担っている。
二つの時間は、相反する時間ではない。その交点に常にぼく達の実存はある。ぼく達個人として、また家族として限りなく生死しつつ、総体としての文明をより善い方向へ作り上げていく存在なのである。
ぼく達が森へ入ってほっとするのはなぜだろう。森は、その片隅で、個々の木は一千年、二千年という時間を個体として生きた末に百年、二百年かけて大地に還ることを繰り返しながら森全体としては何千年と森を維持しつづけている。森はゆっくり循環する。ぼく達自身である循環の相がより大いなる森という循環の相につつまれるからであり、進歩することと同時に、いつでもほっとすることを願っている生きものであるからではないか。
文明の側面から主に取り組まれたものは寿命が短い。完成時のみ、その価値は最大になるが時とともにいわゆる文明の進歩からは取り残されていく。しかし文化の側面から取り組まれた住宅は完成時こそ目立たないが、時とともにその人の生き方とともに歩んでいく。