「エコ生活」を掘り下げて考えてみる
2017年9月30日[ケヤキの見える窓辺]
私たちの家にもし電灯がなかったら?という事が想像できないほどわが国では電灯に頼り切った生活になった。でもよく考えると私たちは家に電灯のない時代が1000年以上も続いていたし、電灯が出始めたころは昼間に電灯をつけることは少なかった。
わが国では建物の出入り口は自動ドア化されてそれを私たちは当然のように受け止めているがわが国を訪れる西欧人は自動ドアの多さに驚くという。ヨーロッパではまだ手動で開閉する建物がほとんどだそうだ。それも我が国の建具と異なり恐ろしく頑丈で重くこしらえられている。我が国の建具は歴史的にも引き戸が多く操作しやすいように軽く作られてきた。それにヨーロパと異なり、自然と一体になった開放的な文化が長年続き、外敵の侵入に備えることは一般の家では重視されなかったためである。
また我が国では昼間から煌々と明かりをつけているコンビニやパチンコ店が多いことは知っている。「エコ」や「省エネ」という言葉が流行しているが私たちの日常でいかにエネルギーを浪費しているかを認識させられることがある。
ドイツに留学されら人の話。下宿には天窓があり、昼間は電気がなくても明るい。最初のうちは、明かりを消し忘れたのではと何度も部屋に戻ってしまったそうだ。大学の授業でも教授が「日本では昼間でも明かりをつけていますから、今日は教室に明かりをつけましょう」と日本人の留学生に気を使ってくださったそうだ。
高緯度にあるドイツと比べてわが国でも特に関西の日差しは春先から強いので、日光をもっと有効利用することができれば無駄な照明を節約することもできるはずだ。
古民家でも炊事場などは天窓を設けて自然光の利用に工夫している。現代は天窓の防水や断熱性能は文明のおかげで上がっているのでもっと使い方を工夫してもよいはず。
昼間から電気をつけたり、コンビニ利用で現代はあまりにも便利な生活にどっぷりつかりすぎていると思う。サッカーのトルシエ監督の言葉を引用するまでもないが日本にコンビニがある限り日本のサッカーは強くならないと。また谷崎純一郎の小説にある「陰翳礼讃」の文化も私たちは忘れているのではないだろうか。日常でもコンビニ的な便利で明るく陰翳のない薄っぺらく平坦な生活に慣れきっている私たちがいることになかなか気付かない。
「エコ」とう言葉をもっと掘り下げて考えることが大切である。「エコ」を「省エネ」でごまかしてはいけないと思う。便利な生活に安住していると私たちが受け継いできた世界に誇れる文化や美徳も消えゆく運命にある。
家づくりにおいても根本的な掘り下げがなく、ただ「省エネ性能」「断熱性」・・・などの数値に振り回されたやり方が横行している。それに気付けない私たちがいる。
※ 写真は蔵王の秋風景