家づくりに生かす伝統的な日本の暮らし
2014年3月7日[ケヤキの見える窓辺]
「雨月」という能の演目の中で西行法師が住吉詣の途中宿を求めた家で老夫婦が言い争う場面が登場する。貧しげな暮らしの中であっても老翁は板屋の雨音を楽しみたいという一方、老婆は破れた軒端から漏れ来る月光を賞でたいと言い、屋根の破れた隙間を葺くべきかどうかで言い争う。中世の庶民の日常の生活の中で洒落た風雅を求めた会話である。
このように中世では貧しい一般庶民にまで風雅の心が浸透していた。戦後を経てわれわれの生活は確かに科学の力によって豊かになったが一方それと引き換えに風雅を愛する心持が消え去ってしまった。
われわれの獲得した豊かさは間違っていたのではないだろうかと疑問に思う人は私だけではないでしょう。戦前の封建的な生活に比べて戦後の自由で豊かで便利・快適な米国の生活にあこがれてひた走りに走ってきたわれわれがたどりついた生活はどうだったのでしょうか。確かにモノやカネがあふれ、手に入れた豊かさは否定できないが失った豊かさもそれ以上に大きいと感じている人も多いのではないだろうか。
「もの」への思いも変わったように思う。われわれは他人が持っているから、便利だから、効率が良くなるからといった理由でものを買うことが多いがこれも違うのではないだろうか。このような理由で買ったものは新しいものがどんどん登場し、捨てる風潮が強まりゴミがあふれる光景があちこちで目に付く。われわれはものの命を大事にして、捨てない暮らし、買わない暮らしをすることが本来持っていた心持ではなかったか。
東日本大震災でも被災地の人たちは家を無くし、大切な家族さえも失った人が多い。彼らが被災地で真っ先に探したものは、ものそのものではなく、写真のアルバムだったり、収集した小石や貝類だったり、自分が宝物にしていた思いでした。ものは思いがあるからこそ意味があり、自分にとって本当に大切なもの、価値があるものこそ必要なもののはずである。昨今の家づくりにおいても他人が持っているから、便利だから、効率がいいから、省エネ(その数値がいいから)とかが指標にされることが多い。ものへの思いを大切にする、捨てない暮らし、買わない暮らし、自然を尊重し自然とともにある暮らし、身体と心を使って生きる暮らしを望まれる方はごく少数だ。
通風を例に考えてみよう。同じ温度の涼風でも木々の間からそよぐ涼風とクーラーからのものとでは心地よさに雲泥の違いがあることをわかって家づくりに採り入れる人は少ない。住応えのある家とはこの違いを分かっている人が心と体を使って自分なりに工夫し快適さを求め得る家だと思う。
外壁を高性能な断熱材と開口部を高気密サッシで覆い、外部と熱的に遮断して高性能な機械式空調機を効率よく使って自らの快適性を得るような家のなんと多いことか。自分の快適さと引き換えに外部に放出された熱は誰が負担するのかまで考えが及ばない。省エネ機器を多用しても一般家庭のエネルギー消費量は増える一方でいわゆるエコジレンマのスパイラルに落ち込むトレンドにある。
気温30℃で湿度が65%のときには2m/秒の風が得られれば不快でなくなる。夏に風を採り入れることは発汗促進等、体感温度を下げる上で有効ではある。しかし日中気温が35℃に達するときは必ずしも通風が有効とは限らない体の調子が悪い時やお年寄りなどは無理しないでクーラーに頼ればよいと思う。
家中の温度を下げるには植栽を用いるのが一番だと思う。東京都の公園での調査では木陰に入ると少なくとも2℃温度が下がるという。夏に家中で涼風を得る方法としては見落とされがちなのが家の北側に木陰をつくること、家中に風の通り道を設けること、南側には落葉樹を工夫して植えること、縁側のような環境調整空間を適度に設けることなどでほとんどクーラーなしでも過ごせるという。
都心の密集地ではこのような手法はそのまま適用できないが心と体を使って積極的に自然に働きかけて自らの快適さを得る方法はあるはずだ。
※写真は函館の聖トラピスチヌ修道院