都心にタワーマンションは貧困だ!
2018年11月13日[お知らせ]
東京タワーから見た夜景は素晴らしいと思う。普段郊外の2階建の住宅に暮らしている私にとっては異次元の風景です。
最近の都心の住宅はほとんどがタワーマンション一点ばりだが問題はないだろうか?タワーマンションでも素晴らしい夜景を享受できるのはかなり上層の階だけである。そこには階層による何らかの格差が生じることは否めない。それは価格にも反映されている。一般の住宅の場合地域によって高級住宅地とそうだない地域があるが必ずしも高級住宅地だけが暮らし良いかというとそうではないと思う。高級住宅地というだけで何か窮屈な感じがして自分に合った暮らしやすい地域を選択して暮らす人も多い。
さて話をタワーマンションに戻すが、暮らしやすさについてはどうだろうか。ほとんどが都心の便利なところに建てられていて職場との関係や便利さから選ばれていると思う。建物も高性能化の先頭を走っているので耐震性や設備は現在の技術からして充実しているはずである。しかしこの「高性能化」についてじっくり考えなければならないと思う。通常の2、3階建の住宅に置いても高性能化が進んでいるがタワーマンションはこの比ではない。
「暮らし」というのは「便利さ」や「高性能化」という切口だけでは評価できない。暮らしは人の日々の生きざまであり、便利さや高性能化が進めばいい暮らしができるかは疑問である。それは私たちのこのDNAを継承してきた歴史を眺めてみるとわかる。はるか昔には現在と比較するとそれは不便で低性能な住宅しかなくそこに人は暮らしていた。自然の猛威にはただひたすら「祈る」ことしか対抗する手段はなかった。現在は通常の地震や台風などの自然の猛威については対抗できる技術を手にしている。しかし一方失ったものも大きい。まず自然に対して敬う心を失って人間の自然に対する「傲慢さ」が増したこと、高性能化により、身近に感じていた風、雨、小鳥のさえずり、子どもの遊ぶ声などが消え、四季のある豊かな自然とともに暮らすことへの喜び、他人への思いやりの心・・・・などが薄れて現実がある。
今こそ住宅の「便利さ」や「高性能化」について慎重に検討しなければならない地点にいる。文明は今まで同様「便利さ」や「高性能化」に一方的に突き進んでいき後戻りはしてくれない。私たちはただひたすらこの文明の流れの中で甘んじていていいのだろうか?今誰しも不気味に感じている社会の様々な不安の原因は私たちの中にあり、ただひたすら文明の流れの中で流れに抗うことなく流されているある無責任さにあるのではないだろうか?
私たちは生を継承していく責任があり、その中には新たな生を産み、育てていく責任があり、その器としての住まいの重要性はとくに高まっているのではないだろうか。
住まいが便利さや高性能化に依存すればするほど災害に対してはそのもろさを露呈してきた事実は歴史が教えてくれているのではないだろうか
※ j京都一休寺の紅葉