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できないことの中でできることが研ぎ澄まされる

2016年11月30日[ケヤキの見える窓辺]

安くてきれいで便利を基準の家づくりが主流になっている現在、個々の暮らしからも離れ、風土にも景観にも配慮されることなくどこでも見る画一的な家が増えている。このような家はまだ新しいうちは何とかなっているが時間の経過とともにただみすぼらしくなっていくだけではないだろうか。伝統的な家の年と共に増えていく風合いはなくなりなぜか薄っぺらい景観になってしまった。

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家づくりのお手伝いをさせていただいて気付いたことがある。がんじがらめの条件—-高度制限、準防火地域、第一種住専、宅造規制地域、狭小敷地、限られた予算などがあり—-の中で通常はできることが限られてくるのだがそんな中でも誰も知らない自分しかやれない鉱脈を発見する場合がある。自分の喜びはまさにここにあると思う。そんな鉱脈を見つけるときはたいてい夢中になって仕事に没頭している。安くてきれいで便利という基準からは自らの人生の中で眩しくて綺麗な光となる仕事はできない。

 

科学技術が発達し暮らしも豊かになったと思われる今、人々は問うであろう。もう少し前のものがなかった時代に比べて果たして幸せになっているのだろうかと。最近テレビでキューバの人々の暮らしが紹介されていたが使い捨てライターも修理して大事に使われていたり、半世紀近く前に我が国の技術者がつくった火力発電所がキューバ人技術者が丁寧にメンテしながらいまだに現役で動いている姿、街を走る車も何十年も前のアメ車がメンテされながら使われている。私たちから見るとなんとも新鮮な姿に見えた。

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ものが溢れ、使い捨ての生活にどっぷりつかっている私たちになにか突き付けられたような衝撃を受けた。物がない貧しい不自由な生活をおくられている中米の小国に比べて果たして幸せだろうか。ものを大切に愛着をもって使うことが私たちの美徳の一つでもあったことを思い起こそう。

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安くてきれいで便利という言葉は確かに大量消費という文明の文脈の中では必須かも知れないが私たち個々の家づくりという行為はこの文脈ではとらえられないもっと人間臭い行為なのだ。

※写真は小樽の街並み

 

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